David Garrigues

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類まれなる勇気、万能の熱意、そして最大限の強さ

20余年にわたるヨガの学びの中で私は、様々な環境下における練習の、その喜びとチャレンジを経験してきました。

たとえばコロラドのボルダーにあるチャウタウクア公園では、凍てつく冬の夜明け前に、帽子や手袋も含めた完全防寒のいでたちで、神妙に厳かに練習をしたものです。

また一方インドのマイソールでは、グルジのオールドシャラの後方右角に”マイスポット=特等席”があり、そこで私は、丸一年間毎日通ってサードシリーズを学びました。

さらに最近では、プライマリーシリーズのDVD撮影の舞台となった南インドの寺院で、とても神秘的なセンタリングを体験するようなプラクティスをしました。

今回お伝えしたいのは、最近の私のゲットーのような場所での日々の練習と、そのかんばしくない練習場所がどのようにして、素晴らしい価値をもたらすようになったのか、というお話です。

私は現在フィラデルフィアのスラム街にある、今にも崩れ落ちそうな茶色いレンガのボロ家に、3人の同居人と2匹の猫と共に住んでいて、2つあるメインの居間には溢れんばかりの楽器と録音機材でいっぱいです。私の住宅環境はまさに、十分な空間に欠けており、実際どの部屋にもマット1枚敷く余裕すらありません。

しかしながら、もし時間さえ合えば、この家でたった一カ所だけマットをひくスペースが、ちょうど玄関を入った所にあるのです。薄いカーペットの床はとても清潔とは言い難く、入口のドアと両隣りの壁と床の換気口がある部分までの間に、ほんとうにちょうど私のマットがギリギリ敷けるだけのスペースではあるのですが。

私はここで、夜明け前に起きて練習をしなければなりません。この時間ならば、他の住人は皆まだ眠っていて、マットの上を横切って家の出入りをする交通状況が避けることができるからです。朝3時から6時にかけては、Brahma Muhurtaと呼ばれ、練習に最も適した時間帯でもあります。

この宇宙的特等独占席での練習で、シッティングポーズにさしかかると、ビンテージ物の録音機材の後側に自然と目がいきます。この大きな木製ボックスの下のほうには古いステッカーが貼られていて、そこにはこう書かれています。

「ただ学び、愛し、そして成長することが全てだったころ」

私はついこの小さなステッカーに気が向いてしまい、禅問答のような好奇心で、あれこれ思案したり、首をかしげたり、噛み砕いて理解しようとしたりします。私はそれがまるで、夢の中の暗号化されたメッセージのように感じるのです。どんな経験に対しても否定的になってしまう私の一部、私のエゴへ向けて発せられる、私の内の奥底からのメッセージのように。

多くの知られざる才能と創造力に溢れた素晴らしい人々が、自分自身のネガティヴな側面に屈服したとき、彼らは内なる天賦の才から遠く離れてしまったり、または間違った方向へ進んでしまい、結果的に挫折したり、諦めて辞めてしまうことになるのを沢山見てきました。ジャック・ケルアックは伝説的な小説「ダルマ行者」の中でこう言います。

「私はかつて、とても献身的に信仰へ身を捧げる修行の日々を過ごし、それは完璧といえるくらいでした。しかしその後、次第に私の言葉は偽善に満ち始め、少しずつ疲れてきて、やがて皮肉的になっていったのです。何故なら、もう私はずいぶんと歳をとってしまったし、日和見的になってしまったからです。それでも私はかつて、慈善や優しさや謙虚さや熱意や静謐さや智慧や至福の中の真実を、本当に心から信じていたし、自分自身のことを、現代の服をきて世界を彷徨う昔の和尚だったのだと、そう思っていたのです。」

これはずいぶんと悲劇的な声明に聞こえますが、その実、私達の誰もが同じことを感じているはずです。私達はいつでも、簡単に疲れ果ててしまうし、“歳をとりすぎて、中立的に”ならざるを得なくなるし、そして致命的に皮肉っぽくなってしまいます。

これはまさに私達の生活そのものが、いかようにして私達を気落ちさせ、辛らつになる理由を与え、創造や成長や変革や生まれ変わる努力を諦めさせたり、止めさせたりしてしまうのか、を表しています。その果てに、森羅万象の神性や智慧、至福、私達の内にある象徴的な命を否定し、聖なるものが創造される根源、大いなる存在の意識(コンシャスネス)の光の導きに対して、絶対的な”No”を突きつけるようになるのです。

私自身もケルアック同様、若い頃は今よりももっと純粋無垢でした。ひたむきに前向きであることが自然であたりまえだったころ、私はもっと瑞々しい熱意に溢れており、いまより喜びに満ちた人生を謳歌していて、スピリチュアルな冒険に対して何の疑問も抱かず、とても楽観的に生きていました。

しかしいつの間にか心の中でとある声が聞こえ始め、その否定的な声は、思いやりや愛に満ちた反応や行動を攻撃し始め、自分の純粋な部分が次第に荒んでいってしまうのでした。そしてこの疲れ果てた態度によって、周囲の人や物事に不平不満を持ったり、愚痴ったりするようになり、怒りや無関心、批判、嫉妬、自分への不信、悲観、孤独がもたらされるようになったのです。

このように自分のスピリット(魂)から遠く離れてしまうと、絶え間ないネガティブさからくる苦しみ、自殺、ドラッグ乱用、過度の肥満、ショッピング中毒、無気力、鈍磨したシニシズムなどを引き起こしてしまします。

私達の多くはスピリチュアルな次元で大切な部分が隠蔽されています。私達のほとんどが疲れ果てて荒んでいます。決定的な突破口を通り抜けるだけの勇気と情熱を持って、自身の内に秘められた真の意義を知るために探求することを恐れています。人々とビジョンを分かち合う術を学ぶことすら、怖いのです。

いったいどのくらいの私達が、本当に心の底から何かを行っているでしょうか?我々を越える大いなる存在の一部として、何かを創り上げ、その価値を与えられ分かち合うことを、果たして行っているでしょうか?

その目は開いているが、心が閉ざされている人々が沢山いる
彼らは一体なにを見ているのか?
単なる“matter-事象”だけを見ているに過ぎない

このルーミーの詩は、私たちのハートを開くためには、事象を超えたものを見なければならない、と指摘しています。すなわち理性や目に写る部分を越え、事象の経験を私自身にとって意義あるものとして変換できるようにしなければならない、と。外側の世界における経験、すなわち事象の経験は、サインを送り、メッセージを伝え、内への道を、スピリチュアルな道程を指し示すような、私自身にとって象徴的なものです。

ケルアックが失ってしまったと感じている、“慈善や優しさや謙虚さや熱意や静謐さや智慧や至福”を信じ続けるために、私はヨガのプラクティスをします。毎日のプラクティスひとつひとつが重要な鍵を持っており、“生きて、愛して、成長する”ことを心から感じ表現するために、日々新たに生まれ変わる可能性を与えてくれます。

プラクティスは本質的で不可欠なものです。挑戦しなければならない状況に置かれたときに、直接的に意識していなくても、私がそこで見ているのは単なる”事象“でしかないことがしばしばあり、そんな時私はハートを閉ざしていて、事象を超えたその本質へアクセスすることができなくなっているからです。

これこそが、私がサーダナ(スピリチュアルなプラクティス)と関わる必要がある理由なのです。私のもうひとつの目を開き、スピリットやハートといった、物事の“事象”を越えた本質を本当に見据える必要があるのです。

先のルーミーの詩の後半は、こう続きます

もしあなたが光に満ちた恋人ではないのなら
(もしあなたが単なる事象しか見ないのなら)
あなたの欲望の身体の強度を抑圧し
どれだけ食べるか、どれだけ眠るかを制限しなさい
(ヨガをしなさい)

現在の私の練習場所は最悪の環境です。寒いし、ゴチャゴチャと乱れているし、1日のうちほんの限られた時間しか使うことができません。だけど、私はこの場所が大好きです。朝4時に、静けさのなかで、ひとりきりで、練習するときを、ほんとうに愛おしく感じます。私の努力、汗、集中、全てを手放し身を任せるとき、それらが私を、否定的で皮肉的で不信に満ちて無気力な最悪の状態に陥ることから救ってくれるのです。

私がどこにマットを敷こうが、実は関係ありません。それはどんな場所でも構わないのです。ほとんどすべての可変的なものごとは、私がスリアAを始めるときにはその価値を一切失います。床が汚れていようが、壁紙がはがれていようが、集中と呼吸を嫌悪する私の中のグレムリンが邪魔をしようと、どうでもいいことなのです。

ヨガをすることで私は、現実の生活に対しても、内なる人生に対しても、”YES”を言い続けられるようになりました。物事の内側の意味、その意味が外側の世界でどのように生起されるのかを見ることができます。たとえそれが、私の古い反応パターンが、私の内なる人生に対して”No”と言い続けている最中であっても。

ヨガは私にパワーを与えてくれます。たとえハートを閉じてしまいたくなるときであっても、もっとオープンに愛を持って、生きていけるように。

ヨガをある程度の期間、内から外への自己変革が現れるくらいの期間続けていると、私達の中にある種の力が生まれてきます。その強さこそが、私達がどのような環境にいようが関係なく、自己を、全ての関係を、私達の世界を、癒し変容するための努力をしつづけていける原動力なのです。

“これらがすべてのヨギの中に見られる特性です
-類まれなる勇気
-万能の熱意
-そして最大限の強さ“
The Siva Samhita

【当サイト内に掲載されている日本語訳文の無断転載、転用を禁止します】

【なお、この日本語訳の掲載に関しては、David Garrigues本人の了承を得ております】

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