月別アーカイブ: 2012年12月

ジェイソン先生ワークショップ・レポート

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このところ続いていた厳しい寒さが、しとしと雨の湿気にほどよくゆるみ、身体と心もほどけるような先週末、静かで優しい温かさに満ちたジェイソン先生のワークショップが、お馴染みの秋谷ヨガハウスで、私達の心に柔らかな光を灯しつつ無事終了しました。

今回は「みんなのためのアシュタンガヨガ」というテーマで、どんなに身体が硬くても、怪我や病気や障害があっても、歳をとっていても、そして人生のどのような転機に見舞われても、誰もがアシュタンガヨガを楽しみ、その恩恵を体感する2日間となりました。

 

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初日のビギナークラスでは、アシュタンガを始めて間もない子育て真っ最中のお母さんや、50代のバリバリ働くお父さん、交通事故で重症を負って間もない方や、自律神経失調症に悩んでらっしゃる方など、参加された方々が、それぞれ様々な環境や条件を抱えながらも、共にマットを並べ、ジェイソン先生から伝わってくるアシュタンガヨガのエッセンスを、身体と心に響かせるように体験していきました。

例えば、高度なポーズや動きのデモンストレーションで、「これがアシュタンガヨガです、これを目指して練習しましょう」と、身体面の鋳型のみを提示されたなら、恐らく私達の大半は萎縮してしまうでしょう。だけど、呼吸と動きを「このように」連動させて、そこから生まれる感覚を「このように」広げていくんですよ・・・、と誰もができるアプローチでアシュタンガヨガの効用を体感させてくれたなら、初めての人でも無理なく自分の身体が赦す範囲で、充分アシュタンガヨガを楽しむことができます。

今回のジェイソン先生のビギナークラスは、まさにそうでした。初めてアシュタンガを経験した、いわゆる「身体の硬い」中年男性陣からは、「キツかった~、シンドかった~」ではなく、「楽しかった~、気持ちよかった!」と、なんとも嬉しい感想をいただきました。

でも、だからといって「全身ストレッチで気分爽快~」というようなユル~い内容だったわけではありません。アシュタンガヨガが、いわゆるフィットネスではない所以を、一番最初に判りやすく私達の心身に落とし込み、その上で実際に体験していけるよう導いてくれました。

たとえば、ウジャイ呼吸。初めての人でも簡単にウジャイ呼吸のキモが体感できるよう指導がなされ、結果的に、よくありがちな「鼻だけで音を立てる軽い呼吸」ではなく、もっと深くて波のように落ち着いた呼吸が、クラスの間中ずっと響き渡っていたのが印象的でした。最近は「ウジャイ呼吸」ではなく「音をたてる呼吸」が指導されるため、軽い呼吸でポーズや動きを優先する傾向にありますが、初心者の方には、まずは深い呼吸と、それに伴う身体の動きとエネルギーの流れを、アシュタンガヨガの基礎として体験していただくことが、とても大事だと思いました。

 

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呼吸と動きの連動に関しても、改めて学ぶことが多かったです。私達は「呼吸と動きが同時に行われること=ビンヤサ」、という知識をもって練習をしますが、気がついたら呼吸が止まったり、過呼吸になっていることが多々あります。それはマインドフルに(常に気づいた状態で)練習をしていない証拠なのですが、今回ジェイソン先生の指導の中で、特に経験者さんから反響が大きかったのが、この呼吸と動きの捉え方のヒントでした。

私達は「呼吸」と「動き」を同時に連動させることは意識しても、アクティブな「呼吸」の範囲内に、「動き」を収めることは殆ど意識しません。具体的には、こんなかんじです。

呼吸:吸い始める

動き:動き始める

動き:動きが止まる

呼吸:吸い終わる

呼吸:吐き始める

動き:動き始める

動き:動きが止まる

呼吸:吐き終わる

実際にやってみると、呼吸が動きを包み込むような感覚です。ポーズとポーズの間の途切れ感がなくなります。まさに、呼吸ありきの練習なのだな、って実感します。「動き始めてから息を吸い始める」ことは少ないかと思いますが、「息を吐ききっても動きがまだ終わらない」事態は、よくありますよね(笑) でも、この「呼吸の範囲に動きを収める」方法で練習してみると、まず無理をしなくなりますし、呼吸そのものの質がどんどん変わっていくようです。

こういった、外側のカタチに惑わされない大切な部分を、しっかりと伝えてくれたジェイソン先生のビギナークラス。このクラスでアシュタンガを始めた方は本当にラッキーですね^^

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他にも色々と深い説明がなされました。

アシュタンガヨガはフィットネスではない、ということ。その効用や目的には、痛みや病気の治癒療法として、さらなる健康と強靭な心身を育てるため、そして神性との深い繋がりを持つため・・・の、3つがある、ということ。

八支則は階段のようなステップではなく、同時に枝葉を広げる意味もあるということ。最初の4支則を行うのがプラクティスであり、残りの4支則はそこから自然に生起するものであり、目的ではないということ。

特に何度も意識するよう強調されていたのは、ヤマの中の「アヒムサ」と「アパリグラハ」でした。肉体的にチャレンジングなアシュタンガヨガに、初めて挑戦した方々にとっては、ことあるごとに「自分の限界を尊重し」「必要以上に足掻かない」ように声をかけられたことで、ただ肉体的に頑張るフィットネスとは違う「何か」を感じとっていただけたのではないかな、と思います。

これまでに何度もビギナークラスを開催しましたが、今回ほど等身大で、地に足のついた、ビギナークラスはなかったような気がします。このビギナークラスに参加された皆さんが、呼吸と動きを通して、自分自身と向き合い、ありのままを受け入れながら、プラクティスそのものを楽しんでいく様子は、とても美しかったです。

 

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さて、2日目のマイソール後は、プラナヤマ&レクチャーのクラスです。

プラナヤマは、一般的なハタヨガクラスで行うマイルドな呼吸法ではなく、シンプルだけどとても深いアシュタンガヨガのプラナヤマの実践でした。

アシュタンガヨガでは、ある程度アサナの練習が進んだ時点で、プラナヤマの練習が推奨されます。最近のマイソールでは、サードシリーズを終えるとプラナヤマの練習が始まるため、高度で難易度が高いと思われがちですが、むかし(故グルジが12名単位で生徒に指導をしていた頃)は、セカンドシリーズを始まるとプラナヤマの練習も始まったそうです。

今回はアシュタンガプラナヤマの4つのシーケンスを、ジェイソン先生と一緒に実践しました。実践中は一切説明がはいりません、ただジェイソン先生に合わせて(手を上げたり下げたりしてサインを出してくれます)、静かに深い深い呼吸を合わせていきます。これはジェイソン先生自身が、ティム先生から教わってきたやり方だそう。グルジからティム先生を通してジェイソン先生へ連綿と伝わってきたものを、ここでこうしてシェアする機会に恵まれたことは、なんかちょっと感動的でもありました。

 

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呼吸困難に陥りそうな(笑)プラナヤマの後は、アサナ・クリニック、そして質疑応答へと、その場の流れに任せるような感じで進んでいきました。

アサナ・クリニックでは、苦手なポースにどうのようにアプローチするか、をテーマにしますが、それがどんなポーズであれ、結局のところ、「その人がどのように苦手ポーズと向き合うのか」が、浮き彫りになってくるようです。

私達は、苦手意識が強すぎたり、理想や目的を高く持ちすぎると、「いまのありのままの自分の状態」を嫌悪したり、逃げ出そうとしたり、無理やり変えようとしてしまいますが、この居心地の悪い状態にあえて留まり、そこでできることを行う大切さを、ジェイソン先生はハッキリと伝えてくれました。

そいえば、マイソールクラスでも感じたのですが、ジェイソン先生の指導は基本的に、苦手な部分にしっかりと向き合って、できるところから土台を築き、焦らずに段階的に何度も繰り返し練習することで、ゆっくりとした変容を促し、そして生徒さんの微細な変化に対して、とても繊細に、そして真摯に寄り添ってくれます。人によってアジャストの仕方が異なるのはもちろんのこと、同じ生徒さんであっても、その時々の状況に応じて微妙に変化があります。

そのくらい私達は、ひとりとして同じものがない、十人十色であり、状況も条件も環境も、常に変化を続けています。この個性をいかに尊重した上で、ヨガというプラクティスを行っていくか、そのために必要な意識はなにか? 今回のジェイソン先生と過ごした2日間で、最も強く伝わってきたメッセージは、ここだったような気がします。

 

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質疑応答の中で、ひとりの生徒さんが尋ねました。

最近大きな怪我をされたと聞きましたが、それをキッカケに、ご自身の練習や、練習に対する意識は、どのように変化しましたか?

ジェイソン先生は、この7月に踵の骨が外に出てしまうほどの複雑骨折をしました。緊急治療の手術や長期療養の肉体的ストレスはもちろんのこと、間もなく生まれる二人目の子供と家族を抱えながら、ヨガの指導者としての収入は絶たれ、高額な医療費を支払うのにも限界があり、まさに目の前真っ暗な状況に立たされ、改めて自分自身の本質の部分に立ち返るキッカケとなったそうです。

 

ヨガは「つなぐ」という意味のユジュという言葉が語源だけれど、今回の事故でボクは、アシュタンガヨガという国を超えた繋がり、そして地元ポートランドのコミュニティに、本当に支えられ、とても助けられたんだ。ボクにとってのヨガは、この繋がりそのものなんだと感じたよ。

事故後は結構早い時期にヨガのプラクティを再開したんだ。もちろんアサナでなくて、プラナヤマと瞑想だけだけどね。現在も痛みが残っているから、ブロックで補助しながら、スタンディングやプライマリーを少しずつやっているよ。でも、どんな状況であれ、ボクは常に自分自身に問いかけてるんだ。

Why do I practice?
What do I really want?

ボクは、なぜプラクティスをするんだろう?いまの自分が本当に欲しているものは何なんだろう?ってね。脚を頭の後ろにかけることが、自分の人生において、そんなに重要なのかな?・・・たぶん、違うよね(笑)

友人の一人がこう言ったんだ、「ヨガは私を少しだけ忍耐強くしてくれる」って・・・、それってすごい素敵なことだと思う。

Why do I practice? What do I really want? いつでも、それを自分に問いかけてみようよ。それは常に変化していくからね。そして選択をするのは、他でもない自分自身なんだからさ。

 

私達の生きる人生には、山もあれば谷もあって、就職、結婚、出産、離婚、退職、病気、怪我、死別・・・さまざまな人生のステージで、奇跡のような出来事もあれば、絶望のドン底もあります。それらはいつも常に変化していて、これまでのアタリマエが一瞬のうちに儚く消え去り、全てを失った空虚に新たな光が射しこんだりします。そんな山谷人生のまっだだ中で、一瞬一瞬の「いまこのとき」に、何故いま自分はコレを行っているのか?いま自分が本当に欲しているのは何か?という問いをもって、うわべだけの体裁や常識に囚われず、自分の内の真実を見つめていくことは、ある意味とてもシンプルで深遠な「生きること」そのものなんだな、と思いました。

今回のジェイソン先生のワークショップでは、ヨガとは?アシュタンガヨガとは?といった堅苦しい枠組みの中の話ではなく、いまを生きる私達の人生において何を大切にするか?という、もっと普遍的な部分に重きをおいたメッセージが、言葉だけでなく、態度や姿勢から、じわじわと伝わってきました。

別にポーズを完璧にするとか、ビンヤサをただしく行うとか、それは重要じゃない。だって、怪我をしている人もいれば、太っている人も、身体のうんと硬い人だっているんだから、見た目だって、全然違ったっていい。だって、肝心なのは、「このプラクティス」をどのように行うか、それを自分でキチンと見極めて実践すること、そのものなんだ、と。

みんなのためのアシュタンガヨガというのは、つまり、そういうことなんだな、と、改めて大切な何かを教わった気がします。

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ジェイソン先生ありがとうございました。ご参加いただいた皆様、そして秋谷ヨガハウスのジュンさん&リビーさん、ありがとうございました。

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アシュタンギのためのアレクサンダーテクニーク・1月の日程

10月から開催している、トシくん先生による「アシュタンギのためのアレクサンダーテクニーク」ワークショップ3回目の日程が決まりました。1/12(土)と1/26(土)の2日に分けての開催です。両日の参加も可能ですし、どちらか1日だけでもOKです。

現在両日とも空きがありますので、これから参加をしてみようかな?という方は、ぜひお早めにご連絡をお願いします!

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【アシュタンギのためのアレクサンダー・テクニーク】

気づきと調和をもたらすアレクサンダー・テクニーク
より繊細に、より自由に解放された「からだとこころ」で
アシュタンガヨガ実践の中、瞬間にたたずみ
「いまここ」をリアルに体験していきます

シリーズ1:Doing(する)練習から Being(ある)練習へ
第1回 10/20(土) 15:30-17:30・・・終了
第2回 11/17(土) 15:30-17:30・・・終了
第3回 1/12(土) 15:30-17:30
第4回 1/26(土) 15:30-17:30

講師:アラマキ・トシヒロ
場所:逗子市民交流センター

参加費:ドネーション(実際に受講していただき、ご自身にとって適切な金額をお払いいただくシステムですので、無理のない範囲でご参加いただけます)

参加資格:アシュタンガヨガの練習を継続的に行っている方。

参加申込み:メールにてお申込みをお願いしたします。 yumikomosley@gmail.com

年末マイソールの特別ゲスト・アラマキトシヒロ先生

10月よりアレクサンダーテクニークのワークショップを開催してくれ、トシくん先生こと荒牧稔博(アラマキトシヒロ)さんが、12/30(日)と12/31(月)のマイソールクラスで、アレクサンダーテクニーク的アプローチでの指導をしてくださいます。

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一般的な、または伝統的なアシュタンガヨガのアライメントとは、少し異なる部分もありますが、普段の慣れたシーケンスの練習の中で、より自由に、より解放された心身で、「いかに自分の身体を使っていくか」を意識する、またとない機会です。

このクラス自体は通常のマイソールクラスですが、その一部として9:00ごろよりトシくん先生が指導に入ります。

参加資格は特にありませんので、どなたでも、ぜひいらしてください。

【スケジュール】
12/30(日)   8:00-10:45 マイソールクラス @鎌倉・大町会館 (トシくん先生は9:00から指導)
12/31(月)   8:00-10:45 マイソールクラス @鎌倉・大町会館 (トシくん先生は9:00から指導)

【参加費】

週1パス・・・期間中は1回まで使用可
週2パス・・・期間中は2回まで使用可
これらを超える場合はドロップインもしくはチケットをご利用ください

チケット・・・通常通り使用可

年末年始ウィーク用チケット・・・3回=5000円 / 5回=7000円
この期間のみ使用可

ドロップイン・・・2000円

ジェイソン先生のブログ・その3

本日より秋谷ヨガハウスで週末ワークショップ開催中のジェイソン先生。静かでナチュラルで、普通にカジュアルで、だけど物事の裏に潜む本質をしっかりと見据える何気ない姿勢に、参加している私達の心が動かされます。そんなジェイソン先生のブログの日本語訳第3弾です。

アシュタンガヨガのポーズは指導者から「もらう」もので、自ら次のポーズを欲しがってはいけない・・・という「決まりごと」の奥に隠された、私達の心の機微についての考察です。

 

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Wednesday, December 12, 2012
IT’S OKAY TO WANT THE NEXT POSE
http://leapinglanka.blogspot.jp/2012/12/its-okay-to-want-next-pose.html

 

次のポーズを欲しがるのは、決して悪いことじゃない。

いや、悪くないどころか、それは普通に想定内というか、アシュタンガをマイソールスタイルで練習する以上、あたりまえに生まれる副産物みたいなものだと思う。

だってさ、マイソールクラスという空間でボク達は皆、他の大勢の人達と共に同じ場所で練習するんだけど、中にはフンワリと空を舞ったり、驚異的な動きやポーズをやってる人もいたりするわけで。

ギータに書かれているように、もし「ヨギとは、難しいことを容易に見せる術、すなわち行為におけるスキルを持つ者である」ならば、まるでデモンストレーションのようにフワリと浮かんだり、しなやかで柔らかにポーズをこなす、憧れのヨギ・ヨギーニのようになりたい、と誰もが思うんじゃないかな。だって、そういうポーズの習得こそが、ボク達が毎日、それも早朝に、ゆっくり眠るという人生の楽しみすら投げ打ってスタジオへ通う原動力みたいなものなんだから。

で、そのマイソールクラスという空間には、興味深いエネルギーのダイナミズムがあるんだよね。権威ある者の姿が、文字通り肉体的にキミの上にのしかかるように存在し、キミの努力に対して「次のポーズを与える」という形でご褒美をくれるんだけど、その承認の模様は、他の人達の目の前であからさまに行われるんだ。

こういうトコロから探究すべき心の豊かな機微や傾向が見えてきて、例えば、許可や承認やサポートを得るために、こんな風に誰かの顔を見上げたりしたのは、うんと昔の子供のころ両親に対して以来だな、って改めて感じたよ。

他にどんな先祖帰り的で、むき出しの感情がボクたちの中に潜んでいて、こんな風に思いを蘇らせたりするのかな?とか、気になるよね。

それに、アシュタンガヨガのシリーズ自体が直線的で前進的な構成になっていて、前のポーズは次の更に難しいポーズへの鍵を開ける役割を担っているのだから、次のポーズを欲しがる気持ちというのは、理にかなっているんじゃないかな。

「プライマリーシリーズがこんな風に感じさせるのだから、セカンドシリーズは一体どんな感じになるんだろう?パシャーサナでこんな感覚になるのなら、クラウンチアーサナはどうなんだろう?ドヴェイパダは簡単にできそうだけど、実際にはどうなんだろう?」
純粋な好奇心や不思議に思う気持ちは、多分こんな風に展開していくんじゃない?

これって、ごく自然なことだし、こう思うのは普通に想定内だよね。

だってさ、好奇心や不思議に思う気持ちは、解決すべき問題ではないし、癒すべき古傷でもなくて、ましてや克服すべきモノでもないんだから。

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サンスクリット語で好奇心はスタイバーヴァ(潜在的に常に存在する基本的な感情)と呼ばれ、ラサ(風味・味、感情状態、美的陶酔)と、アドブタ(不思議・未曾有・めずらしいこと、びっくりすること)とヴィラ(英雄的な・真実に対して情熱的になること)と関連付けられて表現される、と定義されているのは興味深い観点だよね。

だとしたらさ、次のポーズを欲しがるような純粋な好奇心って、ひとつのギフトだと思うよ。

この好奇心は、自分自身を深く学ぶことになるし、練習をさらに継続的にしてくれる。そして先生との対話の手助けもなるだろうし、そしてなにより、何故ボクたちがヨガをしているのかを教えてくれるんじゃないかな。

重要なのは疑問を持つことを止めないこと。好奇心はそれ自体に存在意義がある。永遠や人生や実在の驚くべき構造という神秘について熟考すれはするほど、畏敬の念を持たずにはいられない。この神秘について、少しでも理解を深めようと努力するだけで、それは充分なのだから、この神聖な好奇心は決して失ってはならない。(アインシュタイン)

年末年始のスケジュール

年末年始ウィーク特別クラス

12/29(土)   6:15-8:45 マイソールクラス @鎌倉・大町会館
12/29(土)   9:00-10:30 ハタヨガ @鎌倉・大町会館
12/30(日)   8:00-10:45 マイソールクラス @鎌倉・大町会館
12/31(月)   8:00-10:45 マイソールクラス @鎌倉・大町会館
01/02(水)  8:00-10:45 マイソールクラス @鎌倉・大町会館
01/03(木)  8:00-10:45 マイソールクラス @鎌倉・大町会館
01/04(金)  8:00-10:45 マイソールクラス @鎌倉・大町会館

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【参加費】

週1パス・・・期間中は1回まで使用可
週2パス・・・期間中は2回まで使用可
これらを超える場合はドロップインもしくはチケットをご利用ください

チケット・・・通常通り使用可

年末年始ウィーク用チケット・・・3回=5000円 / 5回=7000円
この期間のみ使用可

ドロップイン・・・2000円

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年末年始の凛とした空気の中

鎌倉という土地のエネルギーに包まれて

心地よい呼吸とともに

練習を楽しみましょう!

ジェイソン先生のブログ・その2

前回のジェイソン先生のブログ・その1が、ちょっとだけ反響あったので、第2弾も引き続き掲載させていただきます。

ユーモラスな中にも、シッカリとした芯があって、アシュタンガヨガを教える上で大切にしていること、理想主義に傾倒することへの警告、アシュタンガヨガのパワーについてなどなど、興味深い内容です。

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THE AGONIES OF YOGA PHOTOS (Sept 3, 2010)
ヨガ写真にまつわる悩み (2010/09/03)
http://leapinglanka.blogspot.jp/2010/09/agonies-of-yoga-photos.html

自分が練習をしている写真を見るまでは、「フルーツバスケット」という言葉には、まったく馴染みがなかった。

それは、ボクが東京にいた時のこと。ナイキの青いヨガパンツ(セール品)を買ったので、友人のクランティにカポターサナの写真を撮ってもらったんだ。自分でも、このポーズを実際に見てみたいな、と思っていたことだし。

で、どうだったかというと、この自分のカポターサナ写真を見て、初めて「フルーツバスケット」というものを意識したって次第。つまりね、小銭入れとか、豆の袋とか、宝石入れとか呼ばれている、いわゆる股間のモッコリとやらの、無駄に際立った膨らみが、青いスパンデックス素材でシュリンクをかけられたように包装されているさまを、その写真の中に見つけたんだ。

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ま、このヨガ写真におけるボクの「フルーツバスケット」は、アシュタンガヨガを教えようかなぁ、と考え始めるキッカケでもなんでもないんだけどさ。というか、実際ボクがアシュタンガヨガを細々ながらも生業として教え始めていく過程は、実はずいぶんとゆっくりと時間をかけて、様々な変化が重なり合って、それらがいつの間にか、ひとつの方向へ向かって流れていった・・・そんな感じだったんだしね。

だけど、「このスタイルのヨガを教えるんだ」という種が、いったん自分の中に蒔かれてからというもの、本当に様々なやり方で水が与えられていったんだよ。自分の意図的な選択はもちろんのこと、妻や友人からの激励、昔の先生からのサポート、それから思いがけない幸運が何度もあったりと、非常に小さくて、あまり関係のなさそうな選択が、大きく積み重なって、蒔かれた種から芽が出て、花が咲き始めたんだ。

マイソールクラスを”教えて”いるときって、本当に活き活きとしてくるのを感じるよ。それはつまり、ボクがシェアされてきたものを、そのまま生徒達にシェアするって、ってことなんだよね。もちろん、果たしてそれが、21世紀の現在を生きる我々にとって、どのような意味を持ちえるのか?なんて壮大なことは、まったく判らないんだけどさ。

ダグラス・ブルックスによるヨギの定義に、「不可能なことをいとも簡単に見せる能力を持つ者」というのがあって、ボクはこれが結構気に入ってるんだ。不可能なことを努力してないように見せる能力、というのは、エネルギーをいかに効率的に管理運用するかって、ことなんだよね。

実際アシュタンガヨガの練習は、このエネルギー制御地図の探求へとボクを導いてくれたし。このプラクティスを介して、ボクたちは自身のエネルギーや、また自分を超えるエネルギーをも、浄化し、寄せ集め、そして方向づけたりしているんじゃないかな。

これはティム・ミラーから聞いたんだけど、グルジは「すべてのヨガスタジオはハヌマン神を祀るべきだ」と言っていたそうだよ。猿の姿をしたハヌマンは、空を飛び、風から生まれ、男性神ラーマと、その妻、女性神シータの再統合を導いたことで知られるよね。そう、ハヌマンは、まさにプラナのシンボルなんだ。グルジがティムへ伝えたかったのは、プラナのシンボルであるハヌマン神によって、外部のプラナ(エネルギー)が一番わかりやすいカタチに顕現化された「お金」がより良く流れる手助けをしてくれるだろう、ってこと。

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ところでヨガを教え始めて、しばらくたつと、ヨガスタジオやジムやスポーツクラブなどから、サイトやチラシに掲載するための写真を依頼されるようになったんだ。

これは事件だったよ。まず、ボクの中の未熟な不安定さや、教えることへの恐怖といった感情を、浮き上がらせてくれた。自分を写真というカタチで提示することは、ブログを書いたりするよりも、ずっと深くて意味深長に思えた。

自分にはそれだけの価値があるんだろうか?本当に準備ができているのだろうか?こんな自分でも充分なんだろうか?シェアできる何かを実際に持ちあわせているのだろうか?技術と共に伝えていけるほど、本当に「このヨガ」を理解しているのだろうか?・・・といった感じで、「教える」という選択と、しっかりと向き合うように、仕向けてくれた。

アシュタンガヨガは、あまりにパワフルで大きな可能性を秘めたプラクティスだから、それがボクにもたらした経験と同じものを、ボクが他の人達へもたらす能力は、自分には到底あるとは思えなかったんだ。

これらの疑惑は根拠のないものだと証明されたけど、それはボクがこの経験を伝えることができないからではなく、ボクの仕事は「経験を引き渡す」ことではないんだと気がついたからなんだ。

ティム・ミラーのプロフィールの中に、「私の指導者としての仕事は、生徒のプラクティスへの情熱を喚起することだけ。首尾一貫して正確に行われるプラクティスこそが、真の教師なのだ。」という、ボクが過去5年以上に渡って無断借用している一節があって、ボクは常にこの言葉に立ち返るようにしているんだ。

この視点からすると、アシュタンガを教えるということはシンプルだよね。だって、ボクがすべきことは、いわゆる「その道」から抜け出すことだけなんだから。

「経験」というものは、常に必然的に終わりを迎えるよね。たとえばヨガだって、クラスを終えてスタジオを去るやいなや、それらは一旦終了し、単なるひとつの経験として分類され、自分の中にファイリングされていってしまう。そこには、始まりがあって、最中の部分があって、そして終了し、記憶となっていくんだ。

これは、インドのマイソール体験と似たところがあるんだよね。だれもが、そこへ行き、ワイルドになって、本当に「覚醒」という経験をすることができるんだけど、その素晴らしい時間も、やがては「覚醒の経験」として、義務的に事務的に自分の中にファイリングされていくんだ。その後、普段の生活に戻っても、「あのときの経験」の焼き直しを常に試みてしまう。あたかも「あの経験」がプラクティスの試金石かのように、自分自身に対して、そして生徒に対して、追体験しようとする。昨年のマイソール経験こそが、自分の生徒達が目指すべきものだ、といった偏狭な考えすら生み出してしまったりもする。そして次回のマイソール詣までの期間を、実に不安な気持ちで待ちわびてるんだ。

別にマイソールへ行かないほうが良いとか、再訪する必要はないって忠告してるわけじゃないよ。ただ、ボク達のリアルな現実の状況について、「実際はこうである」よりも、「こうあってほしい」というのが先に立つような、間違った考えに囚われた理想主義に気づいた方がいいんじゃない?ってこと。

前にも言ったけど、経験というものはホント「来ては去り」なんだ。それこそが、条件付き現実の素晴らしいトコでさ、こういう状況や条件は発生し、維持され、朽ちて、他の状況へと進化していくんだから。状況や条件を自分自身と同一視するのを止めるために、そして、いまのこの瞬間の様々な状況や条件に対して、自然にクリエイティブに反応できるように、アシュタンガヨガという、このプラクティスはボク達をキレイに掃除してくれてるんじゃないかな。

ともあれ、自分のヨガ指導者としての価値についてウザいほどの疑惑が、いったん自分の中で、意識され、指摘され、認識されるや否や、なんらかの形の写真は必須であることが明らかになってきた。このヨガを教えることについては超マジメに取り組んでいたボクは、最も知的で巧みな態度で挑みたかったから、それがヨガ写真を撮ることであるのなら、よし、じゃ、そうしよっか、ってことで。

さて、ヨガ写真を撮影するとなると、たくさんの懸念事項が生まれてきた。まず、デジタルメディアの性質として、写真というものは、いつでもどこでも見ることができる。つまり、人々がその写真を見るときは、どんな言葉も注釈もつけることができない。

次に、実際の写真の内容は、ちょっとやっかいなんだ。超アドバンスの仰天ポーズを実演してみせるのか、親しみのあるポーズにするのか。自分をシリアスで深遠に見せたいのか、快活で人間味溢れたイメージでいくのか。

そして、もちろん、何を着るのかも考えなきゃならないんだよ、普段の練習では、ピチピチのブリーフ一丁の裸族なボクたちなのに。

それから、どんなセッティングで撮るのか?ヨガスタジオ?アウトドアでいくか?外国っぽいエキゾチックな場所とか?

ほかにも、これまでに考えたことがないほどの、いろんなアレコレが出てきてさ、いったい他のヨガ指導者たちは、とくに超多忙で省エネモードな方々の場合、ヨガ写真を撮るのに、どのくらいエネルギーを割り当てられるのか、ちょっと興味が沸いたりもしたよ。

もちろんボクにとっては、素晴らしくて、美しくて、そうありたいと望むような、本当の写真を撮るためだったら、どれだけ時間がかかろうが構わないんだけどね。

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たとえばさ、このステキな写真はデーナ・キングスバーグのカシャパーサナというポーズ写真で、例の写真をイメージしている。それから、エディ・スターンのスタジオのウエブサイトを知ってる?すごい単調に見えるでしょ?なぜなら彼はまったく写真にエネルギーを注がないことに徹しているからなんだ。http://ayny.org/

最近のボクのヨガ写真は、友人のケリーに撮ったもので、彼はボクがプラクティスの中で大切にしていることを反映するよう心を砕いてくれたんだ。ちっとも怖くないポーズだし、後ろににはグルジの写真があって、背景の色も大好きなんだ。すごくいい感じだよ。

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あ、そうそう、この写真には、ボクのフルーツバスケットは写ってない、ってことは言っとかなきゃね。

ジェイソン先生のブログ・その1

12月にワークショップを開催するジェイソン先生のブログLEAPING LANKA
軽妙な口調とシニカルな視線が印象的ながらも、奥に秘められた少年のような純粋な輝きがとても魅力的で、ぜひ皆さんにご一読していただきたいのですが、英語の壁が高くて・・・という方のために、ジェイソン先生の承諾を得て、ちょっとだけ翻訳をしてみました。他にもいくつか翻訳していますので、順次アップしていきます。

MY LEAST FAVORITE POSE (July 30, 2010)
苦手で嫌いなポーズ (2010/7/30)
http://leapinglanka.blogspot.jp/2010/07/my-least-favorite-pose.html

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きっと誰もが、死ぬほど怖いポーズが1つはあると思うんだけど、どうだろう?もし「そんなことないよ」って人がいたら、多分アシュタンガは向いてないんじゃないかな。

ボクは昔、バッダコナーサナが本当に怖かったんだ。

まず、このポーズは、超痛い。それも半端なく。膝を床に下ろせない、前屈なんてできない、というか、まっすぐ座ることすら無理、ってくらいで。それでも、毎日毎日このポーズが目の前にやってくるんだから、たまったもんじゃないよ。

で、なんとかしようと思って、毎朝自宅では、ホームセンターで買った袋に海岸の砂を詰めて作ったサンドバックを、片方ずつの足に乗っけて、コーヒーを飲みながらCNNニュースを見ていたほどなんだから。

だけど今は、このポーズが結構好きだったりするんだ・・・さて、なにが起きたのかって?

そこには、”こうあるべき”と思っていたものと、実際に自分が”ここにある”現実との間に、まるで盲点のような大きな溝があったんだ。そしてボクの恐れる気持ちは、まさにこの、決して繋がることのない、相反するもの同士の、永遠の対立のようなギャップから生まれてきたんだ、って気づかされた。

果たしてボクが渇望して止まなかったのは、感情や肉体で経験する爽快感や、すべてを解放するような感覚といった、ドラマチックな打ち上げ花火みたいなものだったのだろうか?いや、そんなものは決してやってこなかった。ボクにとってバッダコナーサナは、ゆっくりと3年くらいの時間をかけて、少しずつだけど確実に研磨していくような、そんなプロセスだった。いつの間にか、呼吸ができるようになって、前屈ができるようになって・・・って、そんな日がやってくる。ボクはこのポーズで、自分の呼吸、背骨、おしり、お腹やおへそ、そして上前歯につけた舌とかに、まるで没頭するように深く沈んでいき、呼吸が、自分の胸の中で、大きく膨らみ、静かにしぼんでゆくのを感じるようになったんだ。

アシュタンガヨガにおいて、皆がそうであるように、決して完璧ではないポーズのシーケンス、その不完全さを実践するという、美しき限界。そこには、ボク達の”こうあるべき”と思う固定条件と、実際に自分が”こうである”という流動的な状態との間に軋轢を起こさせるような次のポーズが、常に待ち受けているんだよね。

恐れや不安というものは、単なる副産物でしかないし、避けることはできるから安心していいと思うよ。どんな恐怖に巻き込まれようが、このアシュタンガヨガという肉体を使ったシンプルで実際的なテクニックは、僕達をここに、この単純な吸う息と吐く息の、生命の源に戻してくれるんだから。

ボクにとって、忌々しくも啓示的な苦手ポーズとの経験は、バッダコナーサナに始まり、バックベンド、バックベンドからのカムアップ、ベカーサナ、カポターサナ・・・と、次から次へと予想通り続いてていった。そして時が経つにつれ、このような軋轢が経験できる機会に、強く感謝するようになった。いまでもボクは、呼吸とバンダと共にありながら、プロセスが生起するにまかせられるよう、とても慎重に毎日の練習に従事しているんだ。

 

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さて、バッダコナーサナの後は、カポターサナ地獄を経験することになったんだけど、心に刻み込まれた固定的なイメージで作り出した、あまりに厳格で不可能なポーズの理想完成形に向かって、無闇に努力してたら破綻しちゃうよね。ちょっと繊細に傷つく程度なら、まぁ多分、美しいのかもしれないけど、筋肉や靭帯を捻挫とか断裂させるほどの肉体的な破壊となると、それはヨガじゃないと思う。

もちろん、一所懸命にやることは大切だよ。努力する目標を持つことも重要。毎朝ちゃんとマットの上に姿を現してベストを尽くすのも大切。背中を押してもらうことも大事だし、あえて一歩引くことも大事。

でも、インドのマイソールのシャラで体験した「セカンドレッドクラス」と同じものを、普段の練習のときに再現しようとすることは、まず不可能だし、自分自身にとって不誠実なことだと思う。だって、そう望むこと自体が、その瞬間におかれたリアリティを無視してる、ってことなんだからさ。ボクにはそれがよくわかる、だって実際ボク自身、そんなことやってきたからね。

グルジとティム、-彼らは共にボクにとっての永遠の指導者で、ボクの呼吸ひとつひとつの根源であるのだけど-、毎朝、彼らへ蝋燭の光を灯しながら練習をする間ボクは、このマットを離れてもグルジという光を常に宿らせていけるよう、懸命に努力しているんだ。

グルジはとても厳格で容赦なく、多くのものを要求し、生徒達が一生懸命精進するように求めていた。でも、グルジが本当に教えてくれたのは、インドのマイソールシャラでの練習を終えて自分の普通の生活に戻ったときにこそ、僕達は生きた練習をしていくんだ、ってことなんじゃないかな、って、ボクはそう思っている。

これは、マイソールで献身的に身を捧げたグルジとの経験や思い出を再現することではないんだよね。「すべての場所で、すべてのものの中に、神を見なさい」とグルジはよく言ったものだけど、それは「いま」を見なさいという意味なんだ。決して、過去を振り返って、10年も前のグルジとの経験を見ることではないんだ。

このアシュタンガヨガの練習を続けていくうちに気づいたのは、自分自身の幻想や癖や傾向というのは、そんな簡単になくなりはしないってこと。でも、それが何なのか?ってことは見えてきた。一旦それを把握しちゃえば、結構たいしたとこなくなっちゃうんだよね。もしかしたら、ヨギの技術というのは、傾向や癖を巧妙に操作しながら楽しみ、幻想をもすら分かち合うためのギフトなんだと気づくことなのかもしれない。

 

guruji

 

ところで、インドで4ヶ月を過ごした後に、当時住んでいたエンシニタスのスタジオへ戻ったときのこと。ティム先生がいつものように、バッダコナーサナでボクにアジャストをしようと乗りかかったとき、ボクの変化を見て取ったのか、肩をすくめて、「もう私は必要じゃないみたいだね」と言いながら、その場を離れていったんだ。

もちろん、その後も、ベカーサナ、カポターサナ、ガンダベルンダーサナ、スプタトリヴィクラマーサナ、ラージャカポターサナ・・・と、決して終わることはなかったのだけど。

というか、ボクは、終わってほしくないな、って思う。