ジェイソン先生のブログ・その1

12月にワークショップを開催するジェイソン先生のブログLEAPING LANKA
軽妙な口調とシニカルな視線が印象的ながらも、奥に秘められた少年のような純粋な輝きがとても魅力的で、ぜひ皆さんにご一読していただきたいのですが、英語の壁が高くて・・・という方のために、ジェイソン先生の承諾を得て、ちょっとだけ翻訳をしてみました。他にもいくつか翻訳していますので、順次アップしていきます。

MY LEAST FAVORITE POSE (July 30, 2010)
苦手で嫌いなポーズ (2010/7/30)
http://leapinglanka.blogspot.jp/2010/07/my-least-favorite-pose.html

BK

きっと誰もが、死ぬほど怖いポーズが1つはあると思うんだけど、どうだろう?もし「そんなことないよ」って人がいたら、多分アシュタンガは向いてないんじゃないかな。

ボクは昔、バッダコナーサナが本当に怖かったんだ。

まず、このポーズは、超痛い。それも半端なく。膝を床に下ろせない、前屈なんてできない、というか、まっすぐ座ることすら無理、ってくらいで。それでも、毎日毎日このポーズが目の前にやってくるんだから、たまったもんじゃないよ。

で、なんとかしようと思って、毎朝自宅では、ホームセンターで買った袋に海岸の砂を詰めて作ったサンドバックを、片方ずつの足に乗っけて、コーヒーを飲みながらCNNニュースを見ていたほどなんだから。

だけど今は、このポーズが結構好きだったりするんだ・・・さて、なにが起きたのかって?

そこには、”こうあるべき”と思っていたものと、実際に自分が”ここにある”現実との間に、まるで盲点のような大きな溝があったんだ。そしてボクの恐れる気持ちは、まさにこの、決して繋がることのない、相反するもの同士の、永遠の対立のようなギャップから生まれてきたんだ、って気づかされた。

果たしてボクが渇望して止まなかったのは、感情や肉体で経験する爽快感や、すべてを解放するような感覚といった、ドラマチックな打ち上げ花火みたいなものだったのだろうか?いや、そんなものは決してやってこなかった。ボクにとってバッダコナーサナは、ゆっくりと3年くらいの時間をかけて、少しずつだけど確実に研磨していくような、そんなプロセスだった。いつの間にか、呼吸ができるようになって、前屈ができるようになって・・・って、そんな日がやってくる。ボクはこのポーズで、自分の呼吸、背骨、おしり、お腹やおへそ、そして上前歯につけた舌とかに、まるで没頭するように深く沈んでいき、呼吸が、自分の胸の中で、大きく膨らみ、静かにしぼんでゆくのを感じるようになったんだ。

アシュタンガヨガにおいて、皆がそうであるように、決して完璧ではないポーズのシーケンス、その不完全さを実践するという、美しき限界。そこには、ボク達の”こうあるべき”と思う固定条件と、実際に自分が”こうである”という流動的な状態との間に軋轢を起こさせるような次のポーズが、常に待ち受けているんだよね。

恐れや不安というものは、単なる副産物でしかないし、避けることはできるから安心していいと思うよ。どんな恐怖に巻き込まれようが、このアシュタンガヨガという肉体を使ったシンプルで実際的なテクニックは、僕達をここに、この単純な吸う息と吐く息の、生命の源に戻してくれるんだから。

ボクにとって、忌々しくも啓示的な苦手ポーズとの経験は、バッダコナーサナに始まり、バックベンド、バックベンドからのカムアップ、ベカーサナ、カポターサナ・・・と、次から次へと予想通り続いてていった。そして時が経つにつれ、このような軋轢が経験できる機会に、強く感謝するようになった。いまでもボクは、呼吸とバンダと共にありながら、プロセスが生起するにまかせられるよう、とても慎重に毎日の練習に従事しているんだ。

 

jason5

 

さて、バッダコナーサナの後は、カポターサナ地獄を経験することになったんだけど、心に刻み込まれた固定的なイメージで作り出した、あまりに厳格で不可能なポーズの理想完成形に向かって、無闇に努力してたら破綻しちゃうよね。ちょっと繊細に傷つく程度なら、まぁ多分、美しいのかもしれないけど、筋肉や靭帯を捻挫とか断裂させるほどの肉体的な破壊となると、それはヨガじゃないと思う。

もちろん、一所懸命にやることは大切だよ。努力する目標を持つことも重要。毎朝ちゃんとマットの上に姿を現してベストを尽くすのも大切。背中を押してもらうことも大事だし、あえて一歩引くことも大事。

でも、インドのマイソールのシャラで体験した「セカンドレッドクラス」と同じものを、普段の練習のときに再現しようとすることは、まず不可能だし、自分自身にとって不誠実なことだと思う。だって、そう望むこと自体が、その瞬間におかれたリアリティを無視してる、ってことなんだからさ。ボクにはそれがよくわかる、だって実際ボク自身、そんなことやってきたからね。

グルジとティム、-彼らは共にボクにとっての永遠の指導者で、ボクの呼吸ひとつひとつの根源であるのだけど-、毎朝、彼らへ蝋燭の光を灯しながら練習をする間ボクは、このマットを離れてもグルジという光を常に宿らせていけるよう、懸命に努力しているんだ。

グルジはとても厳格で容赦なく、多くのものを要求し、生徒達が一生懸命精進するように求めていた。でも、グルジが本当に教えてくれたのは、インドのマイソールシャラでの練習を終えて自分の普通の生活に戻ったときにこそ、僕達は生きた練習をしていくんだ、ってことなんじゃないかな、って、ボクはそう思っている。

これは、マイソールで献身的に身を捧げたグルジとの経験や思い出を再現することではないんだよね。「すべての場所で、すべてのものの中に、神を見なさい」とグルジはよく言ったものだけど、それは「いま」を見なさいという意味なんだ。決して、過去を振り返って、10年も前のグルジとの経験を見ることではないんだ。

このアシュタンガヨガの練習を続けていくうちに気づいたのは、自分自身の幻想や癖や傾向というのは、そんな簡単になくなりはしないってこと。でも、それが何なのか?ってことは見えてきた。一旦それを把握しちゃえば、結構たいしたとこなくなっちゃうんだよね。もしかしたら、ヨギの技術というのは、傾向や癖を巧妙に操作しながら楽しみ、幻想をもすら分かち合うためのギフトなんだと気づくことなのかもしれない。

 

guruji

 

ところで、インドで4ヶ月を過ごした後に、当時住んでいたエンシニタスのスタジオへ戻ったときのこと。ティム先生がいつものように、バッダコナーサナでボクにアジャストをしようと乗りかかったとき、ボクの変化を見て取ったのか、肩をすくめて、「もう私は必要じゃないみたいだね」と言いながら、その場を離れていったんだ。

もちろん、その後も、ベカーサナ、カポターサナ、ガンダベルンダーサナ、スプタトリヴィクラマーサナ、ラージャカポターサナ・・・と、決して終わることはなかったのだけど。

というか、ボクは、終わってほしくないな、って思う。

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