ジェイソン先生のブログ・その2

前回のジェイソン先生のブログ・その1が、ちょっとだけ反響あったので、第2弾も引き続き掲載させていただきます。

ユーモラスな中にも、シッカリとした芯があって、アシュタンガヨガを教える上で大切にしていること、理想主義に傾倒することへの警告、アシュタンガヨガのパワーについてなどなど、興味深い内容です。

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THE AGONIES OF YOGA PHOTOS (Sept 3, 2010)
ヨガ写真にまつわる悩み (2010/09/03)
http://leapinglanka.blogspot.jp/2010/09/agonies-of-yoga-photos.html

自分が練習をしている写真を見るまでは、「フルーツバスケット」という言葉には、まったく馴染みがなかった。

それは、ボクが東京にいた時のこと。ナイキの青いヨガパンツ(セール品)を買ったので、友人のクランティにカポターサナの写真を撮ってもらったんだ。自分でも、このポーズを実際に見てみたいな、と思っていたことだし。

で、どうだったかというと、この自分のカポターサナ写真を見て、初めて「フルーツバスケット」というものを意識したって次第。つまりね、小銭入れとか、豆の袋とか、宝石入れとか呼ばれている、いわゆる股間のモッコリとやらの、無駄に際立った膨らみが、青いスパンデックス素材でシュリンクをかけられたように包装されているさまを、その写真の中に見つけたんだ。

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ま、このヨガ写真におけるボクの「フルーツバスケット」は、アシュタンガヨガを教えようかなぁ、と考え始めるキッカケでもなんでもないんだけどさ。というか、実際ボクがアシュタンガヨガを細々ながらも生業として教え始めていく過程は、実はずいぶんとゆっくりと時間をかけて、様々な変化が重なり合って、それらがいつの間にか、ひとつの方向へ向かって流れていった・・・そんな感じだったんだしね。

だけど、「このスタイルのヨガを教えるんだ」という種が、いったん自分の中に蒔かれてからというもの、本当に様々なやり方で水が与えられていったんだよ。自分の意図的な選択はもちろんのこと、妻や友人からの激励、昔の先生からのサポート、それから思いがけない幸運が何度もあったりと、非常に小さくて、あまり関係のなさそうな選択が、大きく積み重なって、蒔かれた種から芽が出て、花が咲き始めたんだ。

マイソールクラスを”教えて”いるときって、本当に活き活きとしてくるのを感じるよ。それはつまり、ボクがシェアされてきたものを、そのまま生徒達にシェアするって、ってことなんだよね。もちろん、果たしてそれが、21世紀の現在を生きる我々にとって、どのような意味を持ちえるのか?なんて壮大なことは、まったく判らないんだけどさ。

ダグラス・ブルックスによるヨギの定義に、「不可能なことをいとも簡単に見せる能力を持つ者」というのがあって、ボクはこれが結構気に入ってるんだ。不可能なことを努力してないように見せる能力、というのは、エネルギーをいかに効率的に管理運用するかって、ことなんだよね。

実際アシュタンガヨガの練習は、このエネルギー制御地図の探求へとボクを導いてくれたし。このプラクティスを介して、ボクたちは自身のエネルギーや、また自分を超えるエネルギーをも、浄化し、寄せ集め、そして方向づけたりしているんじゃないかな。

これはティム・ミラーから聞いたんだけど、グルジは「すべてのヨガスタジオはハヌマン神を祀るべきだ」と言っていたそうだよ。猿の姿をしたハヌマンは、空を飛び、風から生まれ、男性神ラーマと、その妻、女性神シータの再統合を導いたことで知られるよね。そう、ハヌマンは、まさにプラナのシンボルなんだ。グルジがティムへ伝えたかったのは、プラナのシンボルであるハヌマン神によって、外部のプラナ(エネルギー)が一番わかりやすいカタチに顕現化された「お金」がより良く流れる手助けをしてくれるだろう、ってこと。

hanuman

ところでヨガを教え始めて、しばらくたつと、ヨガスタジオやジムやスポーツクラブなどから、サイトやチラシに掲載するための写真を依頼されるようになったんだ。

これは事件だったよ。まず、ボクの中の未熟な不安定さや、教えることへの恐怖といった感情を、浮き上がらせてくれた。自分を写真というカタチで提示することは、ブログを書いたりするよりも、ずっと深くて意味深長に思えた。

自分にはそれだけの価値があるんだろうか?本当に準備ができているのだろうか?こんな自分でも充分なんだろうか?シェアできる何かを実際に持ちあわせているのだろうか?技術と共に伝えていけるほど、本当に「このヨガ」を理解しているのだろうか?・・・といった感じで、「教える」という選択と、しっかりと向き合うように、仕向けてくれた。

アシュタンガヨガは、あまりにパワフルで大きな可能性を秘めたプラクティスだから、それがボクにもたらした経験と同じものを、ボクが他の人達へもたらす能力は、自分には到底あるとは思えなかったんだ。

これらの疑惑は根拠のないものだと証明されたけど、それはボクがこの経験を伝えることができないからではなく、ボクの仕事は「経験を引き渡す」ことではないんだと気がついたからなんだ。

ティム・ミラーのプロフィールの中に、「私の指導者としての仕事は、生徒のプラクティスへの情熱を喚起することだけ。首尾一貫して正確に行われるプラクティスこそが、真の教師なのだ。」という、ボクが過去5年以上に渡って無断借用している一節があって、ボクは常にこの言葉に立ち返るようにしているんだ。

この視点からすると、アシュタンガを教えるということはシンプルだよね。だって、ボクがすべきことは、いわゆる「その道」から抜け出すことだけなんだから。

「経験」というものは、常に必然的に終わりを迎えるよね。たとえばヨガだって、クラスを終えてスタジオを去るやいなや、それらは一旦終了し、単なるひとつの経験として分類され、自分の中にファイリングされていってしまう。そこには、始まりがあって、最中の部分があって、そして終了し、記憶となっていくんだ。

これは、インドのマイソール体験と似たところがあるんだよね。だれもが、そこへ行き、ワイルドになって、本当に「覚醒」という経験をすることができるんだけど、その素晴らしい時間も、やがては「覚醒の経験」として、義務的に事務的に自分の中にファイリングされていくんだ。その後、普段の生活に戻っても、「あのときの経験」の焼き直しを常に試みてしまう。あたかも「あの経験」がプラクティスの試金石かのように、自分自身に対して、そして生徒に対して、追体験しようとする。昨年のマイソール経験こそが、自分の生徒達が目指すべきものだ、といった偏狭な考えすら生み出してしまったりもする。そして次回のマイソール詣までの期間を、実に不安な気持ちで待ちわびてるんだ。

別にマイソールへ行かないほうが良いとか、再訪する必要はないって忠告してるわけじゃないよ。ただ、ボク達のリアルな現実の状況について、「実際はこうである」よりも、「こうあってほしい」というのが先に立つような、間違った考えに囚われた理想主義に気づいた方がいいんじゃない?ってこと。

前にも言ったけど、経験というものはホント「来ては去り」なんだ。それこそが、条件付き現実の素晴らしいトコでさ、こういう状況や条件は発生し、維持され、朽ちて、他の状況へと進化していくんだから。状況や条件を自分自身と同一視するのを止めるために、そして、いまのこの瞬間の様々な状況や条件に対して、自然にクリエイティブに反応できるように、アシュタンガヨガという、このプラクティスはボク達をキレイに掃除してくれてるんじゃないかな。

ともあれ、自分のヨガ指導者としての価値についてウザいほどの疑惑が、いったん自分の中で、意識され、指摘され、認識されるや否や、なんらかの形の写真は必須であることが明らかになってきた。このヨガを教えることについては超マジメに取り組んでいたボクは、最も知的で巧みな態度で挑みたかったから、それがヨガ写真を撮ることであるのなら、よし、じゃ、そうしよっか、ってことで。

さて、ヨガ写真を撮影するとなると、たくさんの懸念事項が生まれてきた。まず、デジタルメディアの性質として、写真というものは、いつでもどこでも見ることができる。つまり、人々がその写真を見るときは、どんな言葉も注釈もつけることができない。

次に、実際の写真の内容は、ちょっとやっかいなんだ。超アドバンスの仰天ポーズを実演してみせるのか、親しみのあるポーズにするのか。自分をシリアスで深遠に見せたいのか、快活で人間味溢れたイメージでいくのか。

そして、もちろん、何を着るのかも考えなきゃならないんだよ、普段の練習では、ピチピチのブリーフ一丁の裸族なボクたちなのに。

それから、どんなセッティングで撮るのか?ヨガスタジオ?アウトドアでいくか?外国っぽいエキゾチックな場所とか?

ほかにも、これまでに考えたことがないほどの、いろんなアレコレが出てきてさ、いったい他のヨガ指導者たちは、とくに超多忙で省エネモードな方々の場合、ヨガ写真を撮るのに、どのくらいエネルギーを割り当てられるのか、ちょっと興味が沸いたりもしたよ。

もちろんボクにとっては、素晴らしくて、美しくて、そうありたいと望むような、本当の写真を撮るためだったら、どれだけ時間がかかろうが構わないんだけどね。

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たとえばさ、このステキな写真はデーナ・キングスバーグのカシャパーサナというポーズ写真で、例の写真をイメージしている。それから、エディ・スターンのスタジオのウエブサイトを知ってる?すごい単調に見えるでしょ?なぜなら彼はまったく写真にエネルギーを注がないことに徹しているからなんだ。http://ayny.org/

最近のボクのヨガ写真は、友人のケリーに撮ったもので、彼はボクがプラクティスの中で大切にしていることを反映するよう心を砕いてくれたんだ。ちっとも怖くないポーズだし、後ろににはグルジの写真があって、背景の色も大好きなんだ。すごくいい感じだよ。

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あ、そうそう、この写真には、ボクのフルーツバスケットは写ってない、ってことは言っとかなきゃね。

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